一般的に一発屋と呼ばれる人たちについて、思うところをすこし書いてみたいとおもいます。
一発屋について。環境の重要性と賞賛・称賛という罠。
環境の重要性
環境は変化している。
ある作品を生み出せたということは、その置かれていた環境に依るところが大きいとおもいます。
成功によってその環境は大きく変わってしまうのです。
日常生活においても、いい習慣を保つことは難しく、それを続けられる環境を整えることは重要だと分かっていてもかなり困難です。
生きて活動しているのですから、日々同じように見えても、多少なりとも変化はあります。死があるためにこの事実は否定できません。死が訪れるということは変化しているという事です。
変化があるという事は、失っているものがあり、得ているものがあるという事です。
守らなければならないもの。
いわゆる一発屋と呼ばれる人達が作品を生み出せなくなるのは、失ってはならないものを失い、手にしてはならないものを手にしているからです。
逆にいえば、二作目以降も作品をコンスタントに世に送り出し続けている人は、その守るべきものを守り続けている人だといえます。
その優れた作品を生み出した時、その人はその守るべきものを守り、そしてそれを持っていたという事です。
生み出せなくなるという事は、そうではなくなり、またそうであったその状態に戻ることもできないということです。
よく言われるような才能の枯渇などでは決してないのです。
一発屋という言葉には、ともすれば嘲笑というか揶揄するような響きがありますが、多くの人々は僕を含めて生涯不発なのです。
優れた作品を創った人達はその時、生涯不発の多くの人が手にすることのできない何かを持っていたという事なのです。
その優れた作品を生み出す力、守らなければならない何か、それを今仮に「創作力」と呼びます。
創作力
創作力を手に入れた者は、創作力が何であるのか、どういう経緯で自分がそれを手にすることができたのか知らなくても優れた作品を生み出す事ができます。
経済の仕組みが解らなくても、お金を持っていれば店舗で買い物ができ、エンジンの仕組みがわからなくても、車の運転ができるのと同じです。
その創作力をどうすれば手にすることができるのか、それもまたわからないのです。
僥倖ともいえる運なのか、たゆまぬ努力の結果なのか、しかし、幼い頃から英才教育を受け(これも一つの運)、多くの時間を割いて、例えばピアノの練習を実践したとしても、ピアニストになれる者はごく稀ですし、作曲ができるようになる者は更に稀なのです。
具合の悪い時、その病名を聞くと、原因も治療法もわからないのに、只々その病名を聞いたということだけで、何か少し安心してしまうところがあります。
《作品を生み出す力を創作力と呼んだところで、それが何なのか、またそれをどうすれば手にいれることができるのかその方法もわからないので、今僕自身が何が言いたいのか、ゴールが見えない感が強くなってきました。》
一発屋が名作を生み出したそのときその創作力を持っていたのです。しかし、それが何であるのか、どうやってそれを自分が手に入れたのか分からないというより、それを持っていたという自覚もなかったかもしれません。
ただ、名作を生み出したことは、明らかに成功なのです。
しかし、成功によってその環境は大きく変化するのです。
成功によって多額の報酬が得られれば貧乏ではなくなります。
成功によって有名になれば無名ではなくなります。
しかし、裕福で有名な作家は数多くいます。
確かに売れる前は貧しく名も知られていない人がほとんどでしょうが、その貧しさと無名さが、作品を生み出す必須条件かといわれるならどうもそうではなさそうです。
創作を成し遂げた時には、ここで創作力と呼んでいる大いなる力を持っていたという事になります。大いなる力とのつながりを得ていた、という方が近いと思います。というのも成功によって得られる何ものかによって、そのつながりが断ち切られるという印象があるからです。
何が大いなる力を失わせるか、大いなる力との関係を断ち切るか、それは称賛だと思います。
称賛という罠。
称賛は諸刃の剣
称賛というものは実に曲者です。
まず、する方もされる方も悪い事だと思っていません。いや、むしろいい事だと思っています。
しかし、冷静になって考えてみてください。例えば僕が誰かを誉めたとして、その人が僕の称賛を喜ぶ理由はこれといって特にないのです。正直言って多くの人の称賛とはそんなものです。(むろん、それがお金に換わるから嬉しいとなればすこし話は変わってきますが。)
拍手という称賛を表す行為があります。その行為が称賛を表すという認識があるので成立していますが、そうでないなら「何やってんだこいつ、うるさいな」となるでしょう。
そしてその称賛に振り回されることが、創作に支障をきたすのです。
称賛・賞賛を得られると満足してしまう。(称賛:言葉でほめる。賞賛:物を与えてほめる。)
本当に欲しかったものは、称賛ではないのにかかわらず、称賛を得られると満足してしまいます。
更に、満足を得る事が最終的に辿り着きたいところではないのに関わらず、満足が得られることにより、創作が止まってしまうようです。
思うに満足とは満腹のようなものです。
満腹になるために食事をしているのではないのです。
今回の食事では「もうこれ以上食べなくてもいいですよ、ていうかこれ以上食べ続けることは危険ですよ。」というシグナルであって、食事本来の目的ではないのです。
また、満腹になったからという理由で「もう食べられないから、私には食品・食材・調理器具などは必要ない」と言いそれらを処分する人はまあいないでしょう。
名作を生み出せたときの、その精神状態というか心の在り方が重要なのであって、その状態を保つべく、その状態を保つのに必要な何かを守ることが大切なのです。
名作を生み出すことにより満足してしまうのは、名作を生み出すこと自体が、更にはそのことによって称賛を得られた事自体が目的であったかのように錯覚してしまうからです。
そして、創作が止まってしまうのは、満足により大切なものを捨ててしまう、ちょうど満腹になったからといって、食材等を捨ててしまうのと同じなのです。
《結局のところ創作力がどこから来るのか等、不明なところが多い文章になってしまいました。とはいえ、それが解れば僕自身が作家になれるわけですが。一生のテーマなので、加筆訂正していくことにします。》
- 精神的に追い詰められていたこと。
- 貧しかったこと。
- 無名だったこと。
この辺りに何かありそうなんですが……。