夏目漱石【坑夫】を読みます。
【坑夫】とは。
夏目漱石が職業作家として、朝日新聞に寄稿した【虞美人草】につぐ、2作目の作品です。
漱石を訪ねてやってきたある青年の体験談を素材にして書かれた物語で、漱石としては稀有なことですが、他人の実体験を題材にしています。
物語の発端。
おそらく、家柄もよく裕福な家庭で育ってきたのであろう青年の家出直後から話は始まっています。
後に明らかになっていくのですが、三角関係の縺れから生じる、周りとの人間関係の軋轢に、疲れかつ嫌気がさして青年は家を飛び出しました。
実は自殺までも考えていました。とはいえ、それに対する逡巡はあり、緩慢な自殺である自滅の方策を模索していました。
とりあえず、家を出た流れのままに、松原をひたすら歩いていますと「どてら」こと長蔵というポン引きにみそめられ、坑夫への道をそのまま突き進んでいくことになります。
夏目漱石の小説に多く見られる理屈っぽい主人公たち。
漱石の作品の主人公は大体において理屈っぽいです。
とは言え、理屈をこねるのが好きで理屈をこねているのではなく、ある問題の解決を目指しての考察であることは伝わってきます。
考えていることを正確に伝えようとするあまり、結果理屈っぽくなってしまう感じです。
では、その漱石が解決しようとした問題、解決しなければならないと考えた問題とは一体なんだったのでしょうか。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。草枕より/冒頭
有名な漱石の草枕冒頭部分です。人の世を作っているのは”人”です。にもかかわらずその”人”が人の世を住みにくいと感じてしまう。ここに漱石の提起している問題があると思います。
そして、その人の世を住み難くしているのもまた”人”であるという事になってしまうのです。
ストレス
カナダの生化学者、H.セリエがストレス理論を提唱したのが1938年なので、漱石(1867~1916)の時代にはストレスという言葉は今みたいな使われかたはしていませんでした。
ストレス理論とは
ありとあらゆる刺激に対して、それをスルーすることができず反応してしまうこと。そしてその生体反応は、同質であり非特異的であるというものです。
その生体に加わる力を「ストレッサー」、それに起因する生体の反応を「ストレス」とよびます。
ストレッサー(生体に及ぶいろいろな刺激)
- 物理的刺激 ➡ 寒冷、暑熱、放射線など
- 化学的刺激 ➡ 毒物、栄養障害、酸素不足など
- 生物的刺激 ➡ 感染、身体的拘束など
- 心理的要因による刺激 ➡ 怒り、不安、焦燥など
こういった、ありとあらゆる雑多な外部からの刺激に対し逐一反応してしまい、なおかつその反応がそれぞれの刺激に対して同質であるということらしいです。
それが同質であるため、汎適応症候群といいストレス症候群というそうです。
ストレス理論とは。(もう少し咀嚼しなくては理解できません。)
ポイントは、いちいち反応してしまうこと、その反応が同質であるというところです。
《 いちいち反応 》
この逐一反応してしまうというのは、要するに過剰反応だと思います。
花粉は元来人体には無害なものですが、異質であるがゆえに排除すべき対象であるとの認識がなされ抗体によるその反応がいろいろな病状になってあらわれます。
抗体は体内に侵入した毒素・病原細菌等の異物の排除、無害化を担うものですが、花粉による感作が成立すると、花粉は有害な異物であるとの情報が記憶されるのです。
刺激に対して反応することは必要な場合がほとんどだと思うのですが、ただ自分にとって重要でないこと、有害でないことにまでも過剰に反応してしまうことが問題なのです。
物理的刺激、化学的刺激、生物的刺激に対する反応は当然でむしろ反応できない方が異常です。となると、やはり最後の心理的要因による刺激の受け止め方が重要になってきます。
《 反応が同質である。》
ストレス(刺激にたいする生体の反応)
多種多様な刺激に対する反応が同質であるとはどういうことなのでしょうか。
まず、多種多様な刺激であるストレッサーにより視床下部が刺激されます。そこからさらにはいく種かのホルモンの分泌につながっていくのですが、そういった生体の反応が医学的には同質なのです。
セリエのストレス理論の反応が同質であるとは、「いろいろな刺激であっても、受ける生体においては医学的、生理学的に内分泌機能で説明可能で、その刺激の違いがあったとしても身体は同質の生体反応を示す」ということです。
ストレスという言葉があまりにも汎用され、多くの意味あいを含んでしまっているので、便利な言葉である反面、ストレスと言ったところで、結局のところ何を指しているのか判然としません。
話をもとに戻します。
漱石が問題としていることもストレスに関することであるのは間違いないところではありますが、ストレスという言葉の現状から、「ストレスが問題である。」と、ただそう 言っただけではほぼ何も伝わりません。ストレスという言葉は具体性を失っているのです。
とかくに人の世は住みにくい。漱石とストレス。
” 社会の中でどう生きるか。そしてその個々の生き方は、寄り集まって社会の変革をもたらす力となります。
個人個人の生き方が結果として社会により良い変化をもたらすのです。
どう生きるか、その生き方を見つけて提示します。更に、その実践方法を分かりやすく伝え、そして、多くの人々がそれに共感し実行して、世の中はより良く住みやすくなっていきます。”
以上書いていて机上の空論感が強いですね。確かに正しいのかしれませんが、それは例えば、野球の試合でどうすれば相手に勝てるかという質問に対して、「相手より点を多く取ればいい。」と答えるようなものです。
今の社会の中でどう生きるべきか、その答えを見出すことは難しく、見い出したと思ったとしても、それは個人的な意見として尊重されることはあっても、共感されることはほぼないと思います。
それでもその答えを探求していかなくてはならない、というのが漱石のとった立場です。
則天去私
そくてんきょし( 則天去私 )
夏目漱石が晩年理想とした心境。
我執を捨て、諦観にも似た調和的な世界に身を任せること。
「明暗]その実践作とされる。三省堂 スーパー大辞林
ある種、悟りのような感じです。ただ、その境地に一度達したならそれで終わりということではなさそうです。
というのもそういった境地は、持続・定着されるものではなく、どちらかと言うと刹那的なものだからです。ストレス、特に心理的要因による怒りや不安などで、その境地にから容易く逸脱してしまいます。
その己を捨てて世界との融合をはかる心的状態に達すること、また少しでも長くその心の有り様を保つためには、常日頃の生きる姿勢が問われることになってきます。
自分にとっての理想に近づくために、それに心のベクトルを向けていること、それに向かっていく姿勢をとること、それがどう生きるかを模索し探求することすることなのです。
どう生きるか、その解答を見つけるのではなく、その解答に対する探求、言い換えるならそれに心を向けていることが重要なのです。心を向ける、ベクトルを保つ、姿勢を正すなどいろいろな言い方ができますが、これら全て生きていることが前提なのですから、すなわち生き方を表していることにもなります。
どう生きるか、その答えを探求し続けることが、どう生きるかの答えなのです。
自己撞着、矛盾、あるいは言葉の遊びみたいになってしまいます。
そうならないように、今まで書いてきたような言葉の羅列ではなく、こういったことが実際の生活においてどう現れるかを物語(小説)という形で表そうとしたのが、漱石の試みなのです。
人とは何か?社会とは何か?夏目漱石はそういった事について考える哲学者ではなく、思想家でもありません。さらに、社会の問題を指弾する風刺家でもありません。物語(小説)を創作する作家なのです。
生きていく中で、その探求を実践している主人公はどうしても理屈っぽい人物となってしまいます。
金持ちの道楽。余裕ある者の贅沢な悩み。
そしてその理屈っぽい主人公は、家柄もよく裕福な家庭で育った青年になってしまうのです。
働きもせず、親の金で生活している者がいくら悩んでいたとしても、それは贅沢な悩みだと思われてしまいます。
学年だったらまだいいのですが、漱石の作品登場人物の中には、「この人の職業は一体何なんだろう、どうやって生活しているんだろうか。」と思ってしまうような人が時々現れます。もちろん作中にそれなりの説明はあるのでしょうが、印象としてそうなのです。
ある程度の社会的ステータスと財産をもつ家柄に生まれ育った主人公が、いくらどう生きるべきか悩み考察したとしても多くの読者は共感できないのです。
「金が無く生活は厳しい、どう生きるかなどと考えている暇はない。まず、お金のこと、生活のことを考えてなければならないし、そもそも仕事が忙しいのでそんなことを考えている精神的な余裕はない。」漱石を受け付けない人、受け入れられない人の多くはこう思うのです。また、自分自身は生活に余裕がある場合でも、世間一般の多くの人が貧困に苦しんでいる現状では、漱石は時代に合っていない、若干的外れな作家と思われがちなのです。
もっとも、漱石存命中の当時から、漱石の作中人物の悩みは、知的階級いわゆるインテリ青年の贅沢な煩悶である、という誹りはあったようです。
生活が苦しい。だからお金のことをまず第一に考えなければならない。
「自分を含め、養っていく家族もいる、生きていかなければならない、他からの庇護は当てにならない、だから常にお金のことを考えていなければならない。」
「どう生きるか、などと考えている暇はない、それどころではない。余裕があるがゆえに、時間が有り余ってしまう、だからそんな疑問が生じるのであろう。」
けれど、そもそもお金のことを考えることによってお金が発生している訳ではないのです。金銭的なことを考え気にしていることにより、収益を得ているのではなく、あくまでも労働等の具体的な行動により収益は発生しています。
さらに、経済的に豊かになれば幸福になれる、という思考というか幻想があります。
結婚したばかりで貧しかった時には仲が良かったのに、夫の転職によって収入は増したが、多忙になり夫の精神的・時間的余裕が無くなってしまい、結果離婚してしまうという例、あるいは、これに類似する例を身近で見たことがあるという人は多いと思います。
結局、どう生きるかという問題に繋がってくるというか、その問題が浮き彫りになってくるという感はあります。
どう生きるかという問題は、余暇のある時、暇つぶしに弄ぶ問題ではなく、実は深刻な問題であること。
【坑夫】の冒頭、主人公は家出直後で道を歩いていますが、その家出は自殺を念頭に置いたものでありました。
その後、彼が家柄も良く裕福な家庭で育った、いわゆるお坊ちゃんであることが分かると、その煩悶は変に余裕があるがゆえに生じる贅沢な悩みに過ぎない、という印象を多くの読者に与えてしまうにです。
しかし、そういった青年が同じ立場にあるとしても、皆が皆悩む訳ではありません。
むしろその余裕を楽しみ、また余裕の無い連中を見下して、優越感に浸って生きていく者が多数だと思います。三角関係にしても、自己中心に考え上手く立ち回ること事のみに専心する者も多いでしょう。
しかし、いくら「生き方についての考察が深刻かつ重要であり、お金について考えることでお金を得ている訳ではなく、生活苦について考えることによってそこから脱却できる訳ではない」と言ったところで、この発言には効果はないでしょう。
それ程、金が無いので金について考える、生活が苦しいのでその生活苦について考えるという、この思考パターンは根強く、多くの人々が囚われているのです。
それ故、貧困ゆえに生じる雑多な問題を排除というか、その問題から主人公を免除するという意味において、初めから設定として裕福であるという前提を与えているのです。
ざっくり箇条書きにすると、
- 【坑夫】においてはその主人公が自殺を考える程、彼の抱えた問題が深刻であったこと。
- 余裕がある者が皆悩む訳ではないこと。
- お金のことを考えることにより収益が発生している訳ではないこと。
ということです。
更に、
今、自分の持っていない何かを手に入れられれば、自分は幸せになれる。
という発想があります。これについては、
- まず、第一にそれは手に入らない。( 幸せをもたらすものとしては )
- 次に、それが手に入ったとしても幸せにはならない。
更に更に、自分の必要性。
ということがありますが、あまりにも長くなったので(まさにストレス)、日とページを改めます。